はるのひととき
七氏のつぶやき&忘備録です。
いそしぎ
- 2026/01/21 (Wed)
- つぶやき |
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この映画のこのシーンが好きすぎて、
何度も何度も何度も繰り返してみてしまうのであります。
マイケル・ダグラスの横顔
雨の刑務所の脇の道
しぶきを上げて去るメルセデス
ダイアン・キートンのめちゃめちゃエモい歌声
何度観ても涙がじんわりなのです。
ダイアン・キートンが昨年亡くなってしまってとても寂しい。余計に胸に残ります。
何度も何度も何度も繰り返してみてしまうのであります。
マイケル・ダグラスの横顔
雨の刑務所の脇の道
しぶきを上げて去るメルセデス
ダイアン・キートンのめちゃめちゃエモい歌声
何度観ても涙がじんわりなのです。
ダイアン・キートンが昨年亡くなってしまってとても寂しい。余計に胸に残ります。
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あばんぎゃるど
- 2025/12/22 (Mon)
- 散る文 |
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昔知っていた人のことを少し書く
彼は数十年前に病気でこの世を去ってしまった。
だけど、そんな人のことが最近とても懐かしい。
もう一度会いたい、と想うのだ 。
最初の出会いは高校生の時 12歳年上の人だった。
美術の非常勤講師だった。
年代的に、フォーク系のこともよく知っていたので 仲間と一緒に音楽の話も沢山した。
美術室にYAMAHAのギターを持ち込んでも怒らず、 生徒指導の先生にはナイショで講師室に置かせてくれた 。
とても尖っている人だった。
ヘタな言葉で接すれば即ぶった切られるような、もの凄い緊張感も持っていた。
彼も自分の絵を描いていた。
放課後、美術室の床も壁も絵の具でビシャビシャにして、部員のみんなと好き勝手好き放題な絵を描いた。 彼の絵は"前衛日本画"と呼ばれていた。 美術室の壁いっぱいの大きな絵に何枚も挑んでいた。そこに使うニカワを溶かしながらその電熱器でコーヒーを沸かしたり、岩絵の具を擂る乳鉢の美しさが好きだったり、モチーフに使う巨大な観葉植物でジャングルになったりと、 彼の風景は異様であるくせに心地良かった。
部員のみんなはとても仲が良く(全員女子)、 彼を囲んで不思議な青春を送っていた。 私のことを70年代好きな変わった女子高生として色々構ってくれた。 自分のバンドのことを話してくれて、 ギターをチョットだけ弾いて照れてたりした (彼はRCが好きだった) 。
「キミがいつかJaguarのオーナーになるなら 俺は必ずMercedesに乗ってみせるから・・・」 と、息巻いていた彼は その時、HONDAの中古の軽に乗っていた。 部員のみんなで寄ってたかってその軽自動車にペンキを叩きつけ、ピンクと緑のイカしたArtCARにした。 彼はしばらくその車で通勤していたので 厳しい生徒指導の体育教諭からは睨まれていた。 講師なのに生徒扱いされてたのが可笑しい。 その車に一緒に乗って展覧会の絵を運んだり、鎌倉の海に遊びに行ったりした。 あの頃のことはいくら書いても書き足りないほど沢山の想い出がある。 そして時が経って、 彼は非常勤講師を辞めアーティストデビューし、日本画にリトグラフ、立体に音声作品、銀座のギャラリーで個展などを開き美術雑誌で特集もされて、一躍前衛のメジャーになっていった。
私たちは卒業してそれぞれの道へ別れていった ・・・
そのまま会うこともなく数年が経って ある時、ひょんなことから 彼のアトリエが私の友人の店の近くにあることを知り、友人と 一緒に訪ねてみた。 その頃はもう私は別の年上の人と結婚し、 彼も12歳年下の奥さんをもらって子供もいた 。
7年ぶりくらいに再会したその時には、 ARTの活動以外にも車雑誌の連載やテレビ出演や、 海外にまで進出したりして、とても面白い芸術家になっていて眩しかった。 だけど、懐かしいまま昔と同じ様に接してくれる彼はやはりどこか柔らかく尖っていて、 相変わらず刺激的なことを示唆してくれるのだった。 そのうち、新しい企画展で使う音声の材料が要るから手伝ってくれと言われアトリエに呼ばれた。
笑い声をたくさん録音して、
ポラロイド写真を撮って遊んで、
オーディオの部品をつなぎ合わせて面白いアクセサリーを作ってくれた。
そのころ言われた言葉は、
「君は子供に何か教えるようなお教室をやったらどう?」
と・・・
私には子供がいなくて、友人たちとは違って美大にも行かなかった。
絵は素人、、、なのにナゼ彼はそんなことを言ったのだろう・・・
あれから40年近く経つ・・・
前衛はいつしか現代アートと呼ばれている。
"なんちゃらトリエンナーレ"とか ワークショップとか、少し緩い感じ?
あの彼の尖った照れくささは今思うに、彼の素顔そのままだったかと思う。
artというものはやはり特別なことではなくて、
その人間の手触りそのものだったのだと今になってわかる。
彼の絵を一枚でもいい、欲しいと思うのだけれど・・・
あの日のリトグラフは今どこにあるのだろう。
いくら探しても手に入らないのが不思議で悔しい。
彼は数十年前に病気でこの世を去ってしまった。
だけど、そんな人のことが最近とても懐かしい。
もう一度会いたい、と想うのだ 。
最初の出会いは高校生の時 12歳年上の人だった。
美術の非常勤講師だった。
年代的に、フォーク系のこともよく知っていたので 仲間と一緒に音楽の話も沢山した。
美術室にYAMAHAのギターを持ち込んでも怒らず、 生徒指導の先生にはナイショで講師室に置かせてくれた 。
とても尖っている人だった。
ヘタな言葉で接すれば即ぶった切られるような、もの凄い緊張感も持っていた。
彼も自分の絵を描いていた。
放課後、美術室の床も壁も絵の具でビシャビシャにして、部員のみんなと好き勝手好き放題な絵を描いた。 彼の絵は"前衛日本画"と呼ばれていた。 美術室の壁いっぱいの大きな絵に何枚も挑んでいた。そこに使うニカワを溶かしながらその電熱器でコーヒーを沸かしたり、岩絵の具を擂る乳鉢の美しさが好きだったり、モチーフに使う巨大な観葉植物でジャングルになったりと、 彼の風景は異様であるくせに心地良かった。
部員のみんなはとても仲が良く(全員女子)、 彼を囲んで不思議な青春を送っていた。 私のことを70年代好きな変わった女子高生として色々構ってくれた。 自分のバンドのことを話してくれて、 ギターをチョットだけ弾いて照れてたりした (彼はRCが好きだった) 。
「キミがいつかJaguarのオーナーになるなら 俺は必ずMercedesに乗ってみせるから・・・」 と、息巻いていた彼は その時、HONDAの中古の軽に乗っていた。 部員のみんなで寄ってたかってその軽自動車にペンキを叩きつけ、ピンクと緑のイカしたArtCARにした。 彼はしばらくその車で通勤していたので 厳しい生徒指導の体育教諭からは睨まれていた。 講師なのに生徒扱いされてたのが可笑しい。 その車に一緒に乗って展覧会の絵を運んだり、鎌倉の海に遊びに行ったりした。 あの頃のことはいくら書いても書き足りないほど沢山の想い出がある。 そして時が経って、 彼は非常勤講師を辞めアーティストデビューし、日本画にリトグラフ、立体に音声作品、銀座のギャラリーで個展などを開き美術雑誌で特集もされて、一躍前衛のメジャーになっていった。
私たちは卒業してそれぞれの道へ別れていった ・・・
そのまま会うこともなく数年が経って ある時、ひょんなことから 彼のアトリエが私の友人の店の近くにあることを知り、友人と 一緒に訪ねてみた。 その頃はもう私は別の年上の人と結婚し、 彼も12歳年下の奥さんをもらって子供もいた 。
7年ぶりくらいに再会したその時には、 ARTの活動以外にも車雑誌の連載やテレビ出演や、 海外にまで進出したりして、とても面白い芸術家になっていて眩しかった。 だけど、懐かしいまま昔と同じ様に接してくれる彼はやはりどこか柔らかく尖っていて、 相変わらず刺激的なことを示唆してくれるのだった。 そのうち、新しい企画展で使う音声の材料が要るから手伝ってくれと言われアトリエに呼ばれた。
笑い声をたくさん録音して、
ポラロイド写真を撮って遊んで、
オーディオの部品をつなぎ合わせて面白いアクセサリーを作ってくれた。
そのころ言われた言葉は、
「君は子供に何か教えるようなお教室をやったらどう?」
と・・・
私には子供がいなくて、友人たちとは違って美大にも行かなかった。
絵は素人、、、なのにナゼ彼はそんなことを言ったのだろう・・・
あれから40年近く経つ・・・
前衛はいつしか現代アートと呼ばれている。
"なんちゃらトリエンナーレ"とか ワークショップとか、少し緩い感じ?
あの彼の尖った照れくささは今思うに、彼の素顔そのままだったかと思う。
artというものはやはり特別なことではなくて、
その人間の手触りそのものだったのだと今になってわかる。
彼の絵を一枚でもいい、欲しいと思うのだけれど・・・
あの日のリトグラフは今どこにあるのだろう。
いくら探しても手に入らないのが不思議で悔しい。